第26話 主任
翌日。
個人戦の予選とあって、店内は百人を超える……いや、二百人を超えようと言う程の人だかりで賑わっていた。
これでも集まる参加者の数では、この店は上から十指にも入らないというのだから驚きだ。
「遅ぇよ、蒼木ぃ」
俺は危うく遅刻しそうになったのだが、寝坊したためではない。
「くそっ……、体が随分と鈍ってやがる」
荒い呼吸を整えながら、俺は受付へと向かった。
昨日の試合で思い知った体の鈍りを気にして、ここまで走ってみたものの、予想以上に時間が掛かった上、疲れも酷い。
丸一年もの間、ロクに運動していなかったからと、念の為に余裕を持って家を出たつもりだったのだが……。
「決勝まで一週間、しっかり走り込んでおかないと駄目そうだな……」
今日の予選では、強い相手と当たらないことを祈るしかない。ついでに、最初の試合が遅めになることを祈っておこうか。
「さあて。今日は子守の必要も無いし」
片足を軸に、くるりと半回転。
「のびのびと――」
「『コモリ』がどうかしたんですか?」
歩き出そうとしたところで、今日はいない筈の人物の声が聞こえて、ピタッとその足を止めた。
ギギィッと軋む音を立てながら、首を90度横に向ける。
「うわあっ!何でココにいる!しかもオマケ付きで!」
「……オマケ……?」
眼鏡をかけていない時の俺に似た顔の、見知った女性がピクッとその顔を引きつらせて呟く。
彼女が男のような顔をしていて似ているのなら良かったのだが、残念ながら俺が女性的な顔をしていて似ているのだ。
俺はかなり気にしているのに、彼女はよくソレをネタに俺をからかい、俺はその度に本気で怒る。
こんな奴はオマケで十分!親しき仲に礼儀無し!
何を企んでここに現れたのか、その従姉に向かって俺はさらに言う。
「何しに来たんだよ、オバサン!」
「妙齢の美女に向かって『オバサン』とは、どういう言い草よ!
大して歳も変わらないクセに!」
「俺より10も上なら、十分オバサンだ!」
「10も離れてないわよ!確か……8つの筈よ!」
ちなみに俺はちょうど20。
……そういえばコイツ、30前には結婚すると言っておいて、まだ欠片もそんな話は持ち上がっていないな。
「とにかく、アンタは自分のホームグラウンドに帰れ!」
「出来る訳無いでしょ!
もう、ここで受付しちゃったんだから!」
ゲンナリとしてくる……。降籏さんだけでなく、こんなのとまで一日一緒にいなければならないとは……。
「――で、何で二人が一緒に……?」
力なく、俺は訊ねた。訊ねてから、美菜姉ちゃんもスピリットで働いていることを思い出して、勝手に納得する。
「何でって……まさか羅閃、この子――って言うのも失礼だけど、百合音の事、覚えてないの?」
「……覚えてないって、こんな特徴的な奴だったら、会ったことがあるなら忘れる筈は無いけどな」
特徴的とは言っても、その大半は服装にあるのだが。
もしかしたら、服装が違うと分からないかも……いや、どうだろう?
「奴……。奴と来たか。完っ璧に忘れているようね。
――ちょっと、眼鏡借りるわね」
美菜姉ちゃんは呆れたように自身の眉間に指を当ててから、おもむろに俺の顔に手を伸ばした。
俺の眼鏡をフレームの中央をつまんで取り外し、それを降籏さんに掛けさせる。
別に大したことはない。縁の無い眼鏡の為か、度が入っていない為か、そこから受ける印象もほとんど変わらない。
「――で、それが何か?」
「黒縁眼鏡じゃないと分からない?」
じっとその顔を見つめていると、彼女は少し顔を赤らめて身を引く。
何か頭に引っ掛かるものがあるような気がするが、――分からない。
悩んでいると、美菜姉ちゃんが彼女の背後に立ち、人差し指と親指で丸を作って降籏さんの目に当てる。
刹那の後、閃いた。
「うぎゃああああ!しゅにいいいいん!」
俺の脳裏の片隅に残る顔が、降籏さんの顔と見事にダブった。
「……大袈裟ねぇ。そもそも、もっと前に分かっていても良さそうなもんだけどねぇ」
すぐに思い出したのは、彼女を泣かせる原因となった、あの事件……。
「うおおおおおお!俺はあの主任を相手に、何てことををををををを!」
「うるさい」
俺は従姉のチョップで我に返った。
我に返るが、眼鏡を返してもらってから、その顔とバイトの時に時折見掛けた顔とを脳裏で比べて。
「嘘だああああ!別人だああああああ!」
再び錯乱し、叫ぶ。
三か月ほど前まで、俺はスピリットでバイトをしていた。
CPUキャラクターの強化の為、その行動パターンのアルゴリズムを開発する為のデータ採集を目的として。
優秀なプレイヤー以外にも、運動神経の優れた者の動きのデータを採集する為にと、美菜姉ちゃんの紹介で採用された。
その際、その部署を担当していたのが主任である彼女――同一人物とは思いたくないが――だったのだ。
ただ、その時は分厚い黒縁眼鏡を掛けて、服装も地味と言うか、普通の目立たない恰好だった筈だ。
……待てよ。ってことはだ。
「コッ、コイツ、30過ぎなのかぁっ?!」
「違いますっ!」
俺の記憶にあるあの姿は、どう考えても30過ぎにしか思えない。
だがその疑問は、即座に、それもかなりムキになって否定された。
「じゃあ、29!」
「そんなに行ってません!」
「28!」
「26です!」
「嘘つきぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
叫んだ途端、俺の脛が爪先で蹴飛ばされた。あまりの痛さに声も出ない。
『ジャックのプレイヤーの方、3番の筐体までお越し下さい』
脛を押さえてのたうっている内に、店内放送が俺の出番を告げた。
「ほら、呼んでるわよ!早く行きなさい!」
反対の脛は、よりにもよって美菜姉ちゃんによって蹴飛ばされ、俺はみっともなく床に転ばされた。
どうやら今日は、厄日らしい。