「……ダメだ、我慢の限界だ」
アイヲエル・ウィンドは唐突にそんな言葉を口にした。
「俺、旅に出る!」
場所は、大理石で築かれた風神国の王城の、王族関係者が主に利用するティールームだった。宣言した相手は、師匠のヴィジー・セレスティアルと婚約者のミアイ・ライトだ。
「我慢の限界、って……許可取りを申し込んでから、未だ三日しか経っていないぞ?」
ヴィジーはそう|咎《とが》める。師匠故にだ。第一、国の王子──正式な呼称は|神子《みこ》──が、許可も下りないのに世界中を見て回る旅に出るなど、許される訳も無い。
「今も正に、俺の持っている時間が浪費されていっているんだ!これ以上の無駄は許せない!」
「許されないのは、貴方の方ですわよ、アイヲエル。
まさか、婚約者のワタクシを置いて出ていくとは言いませんわよね?」
貧しい国の出身であるミアイは、折角豊かな風神国に神子の婚約者として招かれたのだ。この、紅茶の一杯も何の|憂《うれ》いも無く飲めるこの国からは、離れがたかった。
「神子だからって、旅に出るのが許せないなんて、そんなルールがあるか!
ルールは犯罪者を取り締まる為だけにあればいい!」
「やれやれ。儂はその思い上がりを正す為に、同行せねばならんな」
ヴィジーは紅茶を飲むのを止め、白磁のティーカップをソーサーに置いた。そして帯剣し、取り急ぎ出発の準備を最低限、整えた。
「40秒で用意する!」
アイヲエルも、帯剣は勿論、虎の子の金貨七枚の貯金を懐に入れた。服はオーダーメイドの、「着回しが楽で恰好良いものを!」と毎回注文を付けている奇抜なものだ。が、そんな服装でも旅に出るには構わないらしい。
「師匠、行って参ります!」
「おいおい、付いて行くって言っただろ?」
ヴィジーの服装は、元天星国王とあって、アイヲエルと同様、オーダーメイドだが、「機能性の高い服を」と云う注文故、即旅に出るとしても、とりあえずは間に合う服装だった。一種の軍服にも見える服だった。
「では、参りましょう!」
「お待ちになって!」
ミアイは、光朝国の王女だが、アイヲエルの婚約者になったことで、オーダーメイドで豪華なドレスを身に纏っていた。とても、旅に出られる服装とは言えない。
「待ってられるか!」
アイヲエルは、ミアイを振り|解《ほど》いて旅に出るべく、ついて来るヴィジーをそのままに、周囲の制止をものともせず、旅立ってしまった。
「ミアイ嬢、|適宜《てきぎ》、現在位置の連絡は入れる」
「……お気遣い、ありがとうございます。ヴィジー殿。
ワタクシも、許可を取り付け次第、追い掛けますわ」
「ああ。その際には、『神子の婚約者』という立場を最大限利用して、権力を振り|翳《かざ》して追ってくるといい。
恐らく、許可は光朝国からも取り付ける事になるから、四ヵ月程掛かると思われる。
出来るだけ近場に居るように、アイヲエルを押し留める。
あとは儂に任せよ」
「よろしくお頼み申し上げますわよ、ヴィジー殿」
カーテシーで丁寧に挨拶したミアイを置き去りに、ヴィジーも急いでアイヲエルを追う。ただ、ミアイに対してそれなりに丁寧な礼をする事は忘れない。
そして、誰にも聞かれない場所で、思いっきり文句を呟く。
「あの野郎、三日坊主の癖はまだ直っていないということか!
三日で大体の基礎は学び取るからか!応用まで学ばんと意味は無いと言うのに。
まずは、風神国内で一ヵ月は足止めするぞ!」
ヴィジーがアイヲエルの師匠になったのは、風神国と並んで豊かな天星国の元星王とあって、神王から直接請われたからだ。経験上、無責任なタチでは無い。だから、アイヲエルを放置することも出来ないのだ。
「おい、アイヲエル!」
アイヲエルは、城の領域を出る一歩手前で佇んでいた。夜中には門を降ろされて閉じられる場所だ。石の城壁から城下街に出る、正にその一歩目を踏み出すべき場所にアイヲエルは立っていた。
「──師匠……」
アイヲエルはヴィジーを振り返った。
「どうした?」
「いえ、この先は、お忍びで偶に出たことがある程度で、本格的に旅に出るのは初めてだなと、感傷に浸っておりました」
「──で、許可なく旅立つのか?」
「──はい!」
アイヲエルは、初めの一歩を遂に踏み出した。蒼穹の下、旅立ちには絶好の日取りだった。
別に、何が変わる訳でも無い。
だが、その一歩を踏み出すことは、『命令違反』を意味する。軍隊なら、軍法会議モノだ。
「ハハハッ、踏み出しちゃいました」
アイヲエルは笑った。爽快という気分でいるのだろうか?
「遂に命令違反を犯したな。本来なら、儂はお前を捕えなければならない立場なのだが──」
それに対しては、アイヲエルは真剣な顔をした。
「師匠は判っていますよね?俺が、国を継ぐには、未だ経験が全然足りない事を」
「判っているなら、三日坊主の癖を辞めろ」
アイヲエルは頷いた。
「この旅は、三日でなんて終わらせません!」
「……目的は何だ?」
「世界を見て廻ること。この国を含め、八ヵ国の政策の結果を見届けること。豊かな風神国を継いで、少なくとも豊かさを維持、良ければもっと豊かにすることを目指します!
あと、個人的に、迷宮が無限の資源の産出場所だというから、迷宮探索もチョロッとやってみたいですね!」
「……本当に旅立つのか?今ならまだ、引き返せるぞ?」
「……踏み出しちゃいましたから」
アイヲエルは、石造りの風に対して強い建物が並ぶ王道へと二歩、三歩、踏み出した。
「付いて来ないなら置いて行きますよ、師匠!」
「見張れる範囲にはいるさ」
ヴィジーも足を踏み出す。この整備された石畳の道一本ですら、国の豊かさを支えていることに、アイヲエルが気付いているか……気付いていないなら、教えるべきか……。
ヴィジーは迷って、とりあえず自身で気付くのを待つことにした。そして、あまりに気付くのが遅いようなら、教えるべきかと判断した。
ヴィジーは振り返り、ミアイは見送りにも来ないのかと思った。だが、恐らく今現在、風神王に謁見の許可を大至急で依頼していることだろうと予測し、アイヲエルを追うことにした。
迷宮に潜るのなら、二人では戦力として不足だ。ヴィジー一人で無双するなら兎も角、アイヲエルにも活躍の機会を与えなければ、機嫌を損ねるだろう。
ならば、人を雇わなければならない。それも、信頼の置ける。
ただ、アイヲエルが何を考えているものか。そればかりは、ヴィジーにも想像がつかないのだった。