第5話 日記
「……嫌な、夢を見た」
ヴァンパイア・ウィルスには、人を狂気に追いやる効果もあるらしかった。ヴァンパイア・ウィルスとは、彼の先祖の日記に、こうある。
『ヴァンパイア、ワーウルフ、ワータイガーの三種のウィルスは、錬金術の結晶とも言える作品で、特にヴァンパイア・ウィルスは優秀である。
永遠に最も近い寿命を得ることが出来るらしい。その代償として、生きる為の血を必要とし、太陽や十字架をはじめとする幾つかの弱点も抱えることになるが、全くダメということもないので、短所を長所が大きく上回るものと思われる。
但し、血を見たり、血が不足すると、前者は興奮から、後者は飢えから、我を忘れてしまうことが多々あることが、我々の経験から分かった。それだけは、吸血鬼の定め。逃れ得ぬ狂気と言えよう。
それによって完全な狂気に囚われたヴァンパイアは、他のヴァンパイアの手によって始末すべきではなかろうか。
何故ならば、ヴァンパイアには、まだ解明されていない、人間では対抗出来ない超人的な能力を秘めている可能性が高いからだ』
子供の頃の狼牙は、血の不足による狂気に囚われいたということだろう。
トマトジュースの効果も、生理食塩水と同じ濃度の塩分が含まれていた方が、効いている。その為、狼牙は常に食塩を持ち歩いていた。水も、生理食塩水――つまり、血液を始めとする人間の体液と同じ浸透圧の塩水にして飲む。
塩加減は、長年の経験から、ただの水ならば完璧に近い加減を出来る。トマトジュースの場合、塩分が含まれていることがある為、一口、味見をしてから調節している。
赤ワインを飲む時はどうしているかと言うと、実は時々入れている。特に、自宅で飲む時は。詩織の前ではやらないように気を付けているが、何度か、無意識にやったことがある。トマトジュースは、「塩分を含む方が好みだ」で通している。
塩分の摂り過ぎで高血圧になるのではないかと心配される方もいるかも知れないが、狼牙はむしろ、低血圧であった。ただ、詩織の前でやると、どうしても注意される。それだけは、直さねばと狼牙も思っている。
狼牙は、血を飲む為に冷蔵庫へと向かった。
彼は、ヴァンパイア・ウィルスの影響で、血を見ると興奮するのではないかとは、心配ご無用。彼は血圧が低いせいではないだろうが、滅多なことでは興奮しない。彼独自の体質だろうと思われる。
瓶に入れた血液を、彼は飲み干した。それで気分は大分落ち着いた。
「ふぅっ……」
今日は水曜日。なのに、もう半分の五本を飲み干している。この分では、週末に向けてトマトジュースで誤魔化すしかない。
そう思いながらも、狼牙は満足気に唇をペロリと舐めた。
部屋のカーテンを閉ざしたまま、狼牙は部屋の電灯をつけた。太陽の日差しを入れるより、その方が彼にとっては健康的なのだ。
夜目は利くが、日記を読むには明かりが無いといけない。起きてすぐだが、血液代を稼ぐには、頑張らなければいけない。
今までにかなり稼いでいるので、極端な話、仕事を一切しなくても、しばらくは持つが、一生分には届かない。
そもそも、ヴァンパイアである彼の一生がどれほどのものであるかなど、予想もつかない。
長寿の記録に届かなければいいが、そうなりそうになったら、死亡届を出して戸籍上は死人として生きるしかないだろうと、狼牙は考えていた。
昨日は、帰ってから血の補給をして体調を整え、多少具合が悪いながらも、日記にこう記していた。
『〇月×日、火曜日。
詩織の家で、修道女に扮した女性が、聖歌隊を率いる映画を見る。素晴らしい出来のゴスペルが、効果絶大。死にそうなほど気分が悪くなった。二度とゴスペルは聴かないよう、以後、気を付けよう。
詩織から、船上で生涯を過ごしたピアニストの映画のDVDの入手を頼まれた。今後、注意して探しておくべし。
他に、特記すべき事項、無し』
はっきり言って、狼牙には文才は無いに等しかった。それで、何故、『吸血鬼の手記』シリーズがヒットしたかというと、一番はそのリアリティ。二番は先祖の文才。三番は運の良さによるものだろう。
先祖の日記は、長いもので日に数十ページに渡る。印象的なセリフは、心理描写その他、詳細に渡るまで記されており、それは直訳しても十分に小説のセリフとして通用するものが多かった。だから、賞を取り、売れるのだ。
だが、狼牙はその先祖たちに感謝してはいなかった。彼は、ヴァンパイアとして生きたくは無かったからだ。
出来れば、普通の人間として、普通の幸せを手に入れたかった。
でも、体質が彼をそうはさせない。特に、小学校の時が酷かった。狂気のウィルスのせいだ。その時の狂気は、今でも彼を苛む。今朝のように。