結城 狼牙の日常

第1話 結城 狼牙の日常

「ふぅっ……」

 彼・結城 狼牙は、赤い湯のお風呂に浸かり、極楽気分を満喫していた。……本人が、その『極楽』という表現を使われたことを知れば、強く否定するだろうが。
 
 彼にとって、『極楽』というのはあまり好ましい言葉ではなかった。何故なら彼は──吸血鬼・ヴァンパイアなのだから。
 
 赤い湯は、赤ワインの安いもの、それこそ千円にも満たないリーズナブルなものをボトル一本分、入れたものだ。彼にとって、赤は血の色。黒と並んで、彼が最も好む色と言って良い。
 
 夕方に、ややぬるめのワイン風呂に約三十分、ゆっくり浸かるのが彼の日課だ。但し、風呂の湯は一回入っての使い捨てではない。二・三日は沸かし湯で入って、週に二度か三度、入れ替える。
 
 バシャッ。
 
 彼は湯から上がった。露わとなった細身で引き締まった体は、日本人の体格とはかけ離れている。西洋人の美しいスタイルだ。
 
 顔も、西洋的な美形。それもそのはず、彼の先祖はヨーロッパ方面の吸血鬼だ。ただ、黒い髪と虹彩が、日本人の血が流れていることを示している。
 
 細身なのは、栄養不足のため。それは、彼が人を襲って血を吸うという行為をしていないことに起因する。しかし、人間の血は飲んでいる。伝のある個人病院から、定期的に輸血用の血液を購入しているからだ。
 
 その値段は、190㏄で一万円。よく、一般的に使われている、小さめの缶コーヒーと同じ量の血液に、彼は一万円も支払っているのだ。それも、週に一度、決まって月曜日に、容器を持って行って十本分も。お互いに他人には言わないことを条件に、お願いして購入しているのだから、このくらいの出費は仕方がない。
 
 それを飲むペースは、まず一日一本、朝、起きてからすぐに朝食として。それから、彼の恋人である草壁 詩織と会う日に、事前に一本。後者は、彼女の血を吸いたくなる衝動を抑える為だ。
 
 食事は、朝食は決まって血液を一本飲むだけだが、それ以外に食事を採らないわけではない。だが、その食事は極端に偏っていることは否めない。
 
 主食は、トマトと言って良い。生のトマトでも良いし、トマトジュースに、ケチャップを使った料理──例えば、スパゲッティの、ミートソースやナポリタン──でも良い。
 
 肉を食べることもあるが、その味付けもケチャップであることが多い。

 肉は、厚くて硬い肉が好みだ。厚めの肉を選んで、生のままケチャップを和えて食べてしまう。

 肉は白滝と一緒に茹でると硬くなるそうなので、わざわざそうして、ケチャップをつけて食べるのだ。

 ……ああ、そうそう。その際に、あまり好きではないのだが、白滝も一応、食べている。苦手でも、ケチャップをつければ食べられなくはない。

 ケチャップはかなり好きなので、時々、ケチャップの容器に直接口をつけて飲むこともある。

 そういうわけだから、ポークチャップは大好物なのだ。
 
 あとは、赤ワインを嗜む程度に。……ああ、そうそう。赤身魚等の魚も、時々食べる。特にマグロが好きで、そしてカツオ、ブリ、サンマなども。ああ、赤身魚ではないが、サーモンや鮭も忘れていた。但し、全て生で。カツオの叩きは生の範疇に入ると考えて良い。
 
 一度、赤い酢で酢飯にした握り寿司を食べたことがあるのだが、それも中々の美味であったことを彼は記憶している。
 
 梅干しも、塩分が3%程度の適度なものは好き。紅生姜も同じく。寿司で添えられるガリも好みだ。
 
 紅茶は、嫌いではない。
 
 あと、何故か乳製品一般は、彼の趣向にかなり合う。彼はそのことを不思議に思っている。他にも、桃の濃い目のジュースも、彼は特定の銘柄を気に入って飲んでいる。時々、それにドライイーストを入れて発酵させてから飲む事も、彼は行っている。売買したら酒税法違反だが、個人的に楽しむ分には、ギリギリセーフの筈だ。
 
 他の食物は、本当にほぼ一切。口にしない。……赤かったり黒かったりする食べ物は、挑戦してみるが。
 
 赤ければ良いという話ではなく、リンゴは赤くても少し苦手。まぁ全く食べられないことは無く、普段、口にしない食べ物に比べたら、まだ大丈夫な方なのだが。
 
 エビチリは、完全にダメだ。ニンニクが使われているからだ。麻婆豆腐も、赤くても駄目。辛い食べ物は彼の舌には合わないらしかった。
 
 だから、彼が詩織と食事に行く時は、選択肢はほぼ二択だ。焼肉屋か、寿司屋。
 
 一回、間違えて中華料理屋に行った際には、酷い目に彼はあった。
 
 焼肉屋では、生肉を食べられる機会があったら、逃さない。

 間違って、焼いてから食べるべき肉を生のまま食べて、詩織を驚かせたことがある。

 寿司屋でも、赤身魚の盛り合わせ以外は、詩織の分を除いて、ほぼ頼まない。

 焼き鳥屋は、たまに例外的な第三の選択肢になる。

 焼き鳥そのものは彼の嗜好に合ったのだが、一般的な『焼き鳥屋』というイメージのお店を、彼は好まなかった。
 
 ……詩織が不審に思わないか、だって?
 
 大丈夫。彼はホラー小説作家で、『吸血鬼の手記』シリーズをヒットさせ、それを読んで彼のファンとなった詩織と付き合うことになったので、正体は恐らく気付かれている。但し、はっきりと言及されたことはない。
 
 彼は常に不気味なムードを漂わせているので、初めて会った時には、「凄ぉーい、イメージピッタリ!」と言われ、その場で詩織の方からプロポーズされている。
 
 だが、彼は付き合うことにはしたが、結婚までにはまだ覚悟が決まっていない。自身の収入の不安定さを誰よりも理解しているからだ。
 
 彼の『吸血鬼の手記』シリーズには裏話が一つあって、その小説は、実は先祖の吸血鬼の日記を元に、多少の脚色を加えて書き上げられているノンフィクションなのだ。当然、本には『この物語はフィクションです』との申し訳程度の断りはしている。その話だけは、まだ詩織を含む誰一人に対して、打ち明けたことは無い。
 
 
 
 風呂上りには、真っ赤なバスローブを身に纏って赤ワインを一杯。ワイングラスを傾けながら、古いヨーロッパの言語で書かれた日記に目を通す。
 
 彼の仕事は、その日記の翻訳作業にかなり近い。先祖代々、日記を付けるのは子供の頃から習慣として行うよう、躾けられているので、小説の題材には事欠かない程の量の日記がある。
 
 日記を読みながら、彼は自分の犬歯を指で触れた。かなり発達した、犬歯である。
 
「……そろそろ、抜きに行かねばな」

 その犬歯は、放っておくと『牙』と呼ぶのに十分な程に伸びてくる。彼の一族にとっては、人の血を吸うための歯なのだから、それも当然のこと。それを彼は、一年に一度くらいのペースで、歯科医に通って抜いてもらっている。
 
 不思議なことに、その犬歯は何度抜いてもその度にまた、生えてくるのだ。これもまた、吸血鬼の悲しい運命。目立たぬためにと、彼はそれを抜くことで対処しているのだ。
 
 ピピピピッ!
 
 彼のスマホが鳴った。日記には栞を挟んでスマホを取りに行く。スマホの表示を見ると、詩織からの電話だった。
 
「……もしもし」

『あっ、狼牙?私、私ぃー。

 ねぇ。私、今月、けっこう生活が苦しくてさぁ。……お寿司、奢ってくれない?』
 
「ああ。

 ……何時頃だ?」
 
『うーん……六時、でいいかな?

 そっちの都合は大丈夫?』
 
「ああ。仕事は昼間、行うことにしているからな。

 夜は、君といた方が好ましいから、誘ってくれて嬉しいよ。
 
 ……用件はそれだけかな?」
 
『うん。あとは、会ってから話しましょ。

 じゃーねー』
 
 電話が切れてすぐ、彼は冷蔵庫へ向かう。血を飲む為だ。
 
 こんな感じで、彼は週に二・三度、詩織と会う。ヴァンパイアは太陽の光を浴びると死んでしまうと言われるが、彼はそこまでではないにしろ、太陽が苦手である。なので、OLとして働く仕事が終わった夕方以降に詩織が誘ってくれるのは、彼にとってありがたいことであった。
 
 土曜・日曜には昼間に会うこともあるが、外を出歩くことはほとんどない。大抵が彼女の家で、DVD等で映画を見たりしている。プレーヤーもTVも、彼が詩織にプレゼントしたものだ。
 
 泊まり込むこともあるが、その時だけは血は我慢して、トマトジュースや牛乳、飲むヨーグルト、桃のジュース等を持参して飲む。どれも、彼の吸血意欲を抑えてくれる効果があるものだ。持参を忘れた際にはコンビニ等で入手する。
 
 彼の部屋に、詩織を入れたことは、一度として無い。
 
「さて」

 まだ五時を僅かに過ぎた時間だが、彼は待ち合わせは待たせるより待つ方が好きなので、すぐに出かける準備を始めた。
 
 着るものは、全て黒一色。下着も、ボクサータイプのものを愛用している。黒いワイシャツ、黒のネクタイ、黒のスーツ上下、靴下も黒ければ、靴も黒光りする革靴だった。
 
 おまえは葬式に出掛けるつもりか、それとも嫌味かと言いたくなるが、悪意は無いことを詩織も理解している。
 
 時々、真っ赤にしたり、それらを組み合わせたりするが、大抵がその葬式ルックである。
 
 そして、忘れるわけにはいかないのが、黒のサングラス。彼は、太陽の光でなくとも、強い光は苦手なのだ。
 
 準備が整うと、ワインを口に含んで漱ぐ。口の中の血の匂いを誤魔化す為だ。漱いだ後のワインは、勿体ないのと、胃の中に入っている血の匂いも誤魔化すのを理由に、飲み込む。
 
 車は持っていないので、飲酒運転の心配も無い。酒には強い方なので、ワインならボトル一本ぐらい飲んでも「酔っ払い」の兆候は現れないが、多少酒臭いのは仕方がない。血生臭いよりはマシである。
 
 あとは、財布に少し多めの現金を入れて出掛ける。クレジットカードも持ってはいるが、滅多に使わない。
 
 ……そうそう、家の鍵をかけるのも忘れずに。