第15話 実験台
「楓、体を借りますよ」
「うん!」
楓が、目を瞑って待った。だが、いつも通りに行かず、紗斗里がBEEP音を発した。
「プログラム『デュ・ラ・ハーン』による仮想人格が、トランスモードへの移行を拒絶しています。
『デュ・ラ・ハーン』を一時的に切り離してもよろしいでしょうか?」
「Yes」
疾風が答えた。すぐに紗斗里は反応し、トランスモードへの移行を始めた。
楓が目を開く。何となく、そのままの意味では無く目の色が、雰囲気が違っていた。
「お待たせしました」
そう言ったのは、楓のようであったが、本来の楓自身では無い、楓の身体を乗っ取った『紗斗里』であった。
「どうやら、デュ・ラ・ハーンによる仮想人格は、完成度は高いですが、僕らには相性が悪いようですね。
以後、デュ・ラ・ハーンによる仮想人格は封印します。よろしいですか?」
「OK。
早速、デュ・ラ・ハーンをマシン語で表示してくれ」
疾風は、楓とは向き合わない。紗斗里の端末であるディスプレーを見ながら、そう言った。
「了解。表示します」
そのディスプレーいっぱいに、0~9の数字と、AからFのアルファベット、通称『16進数』と呼ばれる数字の列が表示された。疾風はそれを目で追いながら、徐々に表情を歪めていった。
「おいおい、まだ終わらないのかよ」
「だから、莫大な情報量だと言った筈ですが?」
「……駄目だ、追い切れなくなった!」
疾風は遂に限界に達し、ディスプレーから目を離して天を仰いだ。
「ここまで理解していた方が凄いと思いますが」
「紗斗里。お前は理解しているのか?」
疾風は紗斗里のディスプレーを見る楓に向かって、そう訊ねた。そして――
「コンピューターに、当然の事を聞かないで下さい――と、言いたいところですがね。
まあ、僕に言わせれば、ピアノで楽譜を見ながら、他の予備知識を与えられずに、『猫踏んじゃった』を弾くのが難しいのと一緒、ということです。何とかなります」
紗斗里ではなく、楓がそう答えた。だが、目の見えない者なら分かっただろう、今の楓の声が、先程までの紗斗里の声と等しいことに。
「紗斗里。他の言語に翻訳は出来ないか?」
「無理です。先程、試してみましたが、通常は使う必要が無い為に他のコンピューター言語には言語化されていない命令が幾つもありました。
まぁ、本来ならば、他の命令で代行可能なのですがね。人間の脳で処理するが為に、翻訳出来ません。
そもそも、マシン語と同じ書体なのに、マシン語として何の効果も無い筈の命令もありましたから。
はっきり言って、どこが超能力を目覚めさせる命令なのか、どこが1年後に死を齎す命令なのか、僕にも理解出来ませんでしたね」
「そんな……」
絶望に打ちひしがれた睦月が、悲鳴にも似た声を上げた。
「……過去形だったな」
「ええ。
そこで、睦月先生に提案があります」
「……え?」
「楓の身体を、実験台として使ってもよろしいでしょうか?
それぞれの命令を楓の身体に送って、それが人体にどのような効果を齎すのか、調べてみたいのです。
予め言っておきますが、これは一つの賭けです。
いきなり、人を死に追い込む命令を送ってしまった場合、最悪、楓は死にます。
ですが、他に方法はありません。
ある程度、予測は出来ています。恐らく、これではないかという見当はついていますから、それは避けます。
ですから、どうか許可をお願いします。
僕も、楓を助けたいのです。
僕にとって、楓は大切な親友――いえ、妹のような存在ですから」
決断は躊躇われた。『最悪、楓は死にます』と言われた、その1点の為。
だが、そのまま放っておいても、楓は恐らく死んでしまうのだ。
「紗斗里。それを試す事によって、本当に楓は助かるの?」
「分かりません。ですが、その死を無駄にしない事にはなります」
「そ、そんな条件で、私が許可を下すと思っているの?」
「……あなたも、学者ですから」
睦月は、「はっ!」と我に返った。そう、睦月も一応は先生と呼ばれる学者なのだ。研究所に雇われている身とはいえ、それは変わらない。そして、そんな睦月が下すべき決断は、一つしか無い。
「……分かりました。許可します」