第11話 紗斗里
家へと帰った楓を待っていたのは、母である睦月であった。
彼女は武蔵研究所の職員の一人で、スーパーコンピューター『サトリ』の担当者だった。
性格は温厚で、楓にも優しいが、仕事の時は違った。
楓はアルバイト扱いだが、仕事として『サトリ』の相手をする事を母からも会社からも認められ、自分でもその意思はあった。
だから、給料はしっかりと支払われ、そのお金の管理も楓に任されている為、仕事をするに際しては、睦月は楓に対して厳しかった。
楓の仕事は、『サトリ』の知能をゲームを通じて高める事にあった。
大抵の場合は対戦型のゲームで、古いものでは将棋や囲碁、チェスやオセロなどもやっていたが、オセロとチェスに関して言えば、最初から100%負けない知能を与えられているので、その相手をする楓は大変である。
将棋も囲碁も、既にプロ顔負けの腕前を誇っているのだ。
それでもまだ『サトリ』の方が強く、勝率は『サトリ』が『指導対局』をしてなお9割、楓が1割弱、あと、時々引き分けがある程度だ。
なので、最近は新しいゲームを行う事の方が多い。
手抜きをすれば『サトリ』にはそれが分かるらしく、その度に睦月へと報告がもたらされ、楓は叱られるのだ。
一方、『サトリ』の知識の方は、これは簡単なもので、メモリーワイヤーに情報を詰め込み、ソケットに差し込むだけで手に入れられる。
だから、『サトリ』に必要なのは『知能』なのだ。
楓では無く、他の大人がやった方が良いのではないかという話も一度は持ち上がったのだが、成長の見込みのある子供を、という睦月の強い意見により、楓が採用されるに至った。
「お帰り、楓。
今日は終業式だったのよね。友達と遊んでいたの?」
「うん。いいもの手に入れたんだ。それで遊んでた」
「いいもの?」
何も手にしていない楓を見て、睦月は疑問に思った。
「何を手に入れたの?」
「デュ・ラ・ハーン」
その一言は、睦月の心臓を掴むかの如く、驚かせる一言だった。
そして同時に、彼女を地獄の底へと突き落とす一言でもあった。
「『デュ・ラ・ハーン』!何てこと……。
あの悪魔のウィルスに、楓、あなたは感染したと言うの?」
睦月は、久しぶりに笑顔でも真顔でも無い第3の表情をその顔に浮かべた。
「ママ。リアクションが大き過ぎるよ」
「馬鹿!あなたにも言った筈でしょう?あのソフトにだけは、手を出しちゃいけないって」
「言われてたけど、忘れてた。
アレって、やっぱりそんなに危険なの?確かに、感染した瞬間、デュ・ラ・ハーンが頭の中に現れて、死を仄めかすメッセージを送って来たけど。
僕、1年後に本当に死んじゃうのかなぁ?
ねえ、ママ。死ぬって、本当に怖いことなの?」
人間の経験する事の内、唯一に近い、メモリーワイヤーに詰め込んで仮想的に経験する事の出来ない、つまり、楓の好奇心を満足させるデータの無い『死』という情報。
それ故に、楓は死に直面した今だからこそ、『死』に好奇心を抱いてしまった。
「死んだら、ママとも友達とも、もう2度と会うことが出来なくなるのよ」
「そんなこと、いつかは訪れる事でしょう?
死んだら、天国っていう楽園に、本当に行けるのかなぁ?」
「2度と、遊ぶことが出来なくなるのよ?」
「……それはちょっと困る」
ようやく楓は、再び『死』を否定する意思を取り戻した。学校で、涙を流して以来の事である。
「でも、何ともならないよねぇ?僕が助かる手段なんて、どこにも無いよねぇ?」
そう思うと、楓は泣きそうになってきた。香霧とも、紗斗里とも遊べなくなる。そのことに。
睦月は、せめて「大丈夫よ」とでも、慰めの言葉を我が子に掛けてあげたかった。
しかし、それを出来なかったのは、どんな手段を尽くしても、楓を救ってやれないという現状を誰よりも良く知っているからだ。
事実、睦月は過去、楓の父親でもある夫を、デュ・ラ・ハーンによって亡くしているのだ。
今、半狂乱になって泣き乱れないのは、過去、そのような体験をしているからなのだ。
両親を交通事故で亡くし、祖父母はとうに亡く、血の繋がった家族はもはや、楓しかいない。
彼女が泣いたところで、誰がそれを責められようか。
だが、気丈にも彼女は泣かなかった。
涙は、夫を亡くした時に枯れ果ててしまった。
それは夫が万が一の場合を考えて、楓の為に睦月にはデュ・ラ・ハーンを感染させなかったという気遣いが、彼女をそこまで泣かせたのだ。
だが、現状は泣かなかっただけで、他に何か、楓や自分自身を慰めるようなことは出来なかった。
ただ、呆然と座り込むだけだ。
「ねえ、ママ」
「……何?」
楓に呼び掛けられたものの、睦月には楓の声など、右から左へただ流れるだけだった。
その意味も解すことはなかった。だが……。
「『サトリ』のことなんだけど、漢字の名前を付けてあげても良い?」
『サトリ』!唯一の希望を、睦月はそこに見出した。
「それよ!」
「え?」
再び両肩を掴まれた楓には、睦月が何を指して『それ』と言っているかも理解出来なかった。
「『サトリ』よ、『サトリ』!『サトリ』なら、対デュ・ラ・ハーン用ワクチンを作れるかも知れない!」
「……ママ、僕の話、聞いてた?」
もちろん聞いていない(現在進行形)。
「すぐに行きましょう!準備は出来てる?」
「あ……うん。
それで、『サトリ』の名前は変えても良いの?」
「そのくらい構わないから、急いで車に乗って!」
「はーい」
いつもは睦月に開けてもらっている車のドアも、今なら一人で開けられる。
楓はサイコワイヤーを伸ばし、車のドアを開けた。
丁度その時、家の鍵をかけていた睦月は、開いている車のドアと、車に飛び乗る楓を見て、何か違和感は覚えた。
が、その原因を追究する前に、急いで研究所に戻らなければという思いに急かされ、車に乗り込んだ。
位置的に楓には手の届かない筈の車のドアが閉じられたことには違和感すら感じず、睦月は車を走らせていた。
「それでね、『サトリ』なんだけど……」
「なぁに?『サトリ』がどうしたの?」
「……やっぱりママ、僕の話、聞いてない」
「あらら、ごめんなさい。
ママ、焦っちゃって」
謝る睦月の顔には、今は笑顔すら浮かんでいた。
それも当然、睦月には、楓以上に『サトリ』の能力が分かっているのだ。
今の状況に追い込まれてすら、『サトリ』には絶対的な力がある。睦月には、それが分かっているのだ。
「糸偏に少ないと書いて『紗』、北斗七星の『斗』、最後に里の『里』で紗斗里。良い名前でしょ?」
「なんだか、女の子みたいな名前ね」
「だって、僕にとって、紗斗里ってお姉ちゃんだもん」
睦月はフフッと微笑んだ。
最早、睦月は完全に紗斗里が現状を打破してくれるものだと、信じて疑わなかった。
確かに今、それ以外に頼るものは他に無い。
しかし、その事態を解決するには、未だ紗斗里は幼い事を、睦月は心の片隅では知っていた。
だが、睦月にとって紗斗里は、溺れる者が掴む藁である。
もう他に頼るものが無いという思いの方が強いのだ。
だから、紗斗里に縋るのだ。
車はやがて、郊外へと出た。武蔵研究所までは、あと少し。