第29話 アテネ覚醒
『私は……誰?』
囁くようなその声で、奈津菜の意識は目覚めた。そう思ったのは、彼女唯一人かも知れない。
『私は……誰?』
まだ少し白濁している意識の中で、彼女はそれを自分の声と錯覚し、もしかすると話に聞く記憶喪失というものになってしまったのではないかしらと思ってしまった。
少なくともその声は、自分が声を出した時に聞こえるものと瓜二つであった。
目を薄っすらと開けば、そこには大きな鏡が見えた。
いつの間に裸になったのだろうか?
鏡に写った自分の姿は、胸がやや小さいのが気になるものの、均整の取れた一糸纏わぬ美しいものであった。
『私は……誰?』
鏡に写った自分に向かって、三度問い掛ける。
それがまさか、鏡に写った自分が問い掛けて来ているものだとは、夢にも思わない。
「私の名前……新見 奈津菜」
記憶喪失では無い。自分の名前をわざわざ口にしなくても、それは明らかだった。
もう一度、確かめるように呟く。
それを確かめようとしたのは、一体誰だったのか。
「……本当に、それでいいの?」
口が動き、声を出す。
やや間を置いてから、もしかするとそれは自分の意思で口にしたのではないのかも知れないと思った。
「間違い、無い。……よね?
――うん」
頭の中に、何かもやもやとしたものが残っている。
それが徐々にはっきりとしてゆくにつれて、鏡の中の自分の姿は、逆にゆっくりとぼやけて行く。
それがやがて形になった時、そこには違和感の正体が現れた。
右手に握られた、一本の大きな槍。
全身を包む簡素な白い服と、その上から装われた、白銀の鎧兜。
明らかになったその女神の姿は、左手に掲げた盾にも描かれていた。
「あなた、誰?」
奈津菜の質問に、女神は不思議そうな顔をした。
同じ顔をしている筈なのに、その顔は正に神々しいまでに美しい。
「私は新見 奈津菜。あなた自身が教えて下さったのに、何故そんな事をお尋ねになるのですか?」
「違う!奈津菜は私!」
大袈裟な身振りで、ムキになって女神の言葉を否定する。
まるで、それに自分の尊厳がかかっているかのように。
「同じことではありませんか。
あなたと私は一心同体。……いえ、二心同体なのですから。
すみませんが、あなたはしばらくの間、おとなしく見ていて下さい。
ここからは、私の役目ですから」
そう言い残した女神の姿が消え去り、代わりにその鏡は覗き込むようにしている疾刀の姿を写し出した。
「疾刀!」
『良かった、ようやく意識を取り戻してくれた』
その顔を見てほっとしたのも束の間。その声は、まるで壁を一枚隔てているかのように、どこか遠い。
『すみませんが、手を貸していただけませんか?』
どこからともなく聞こえる、奈津菜の声。普段は聞き慣れぬ、その丁寧な言葉使いに驚きながらも、疾刀は快く返事をして彼女を立ち上がらせた。
『珍しいですね。僕に対して、そんな丁寧な言い方をするなんて』
「違う!それは私じゃないのよぉ!」
その声が疾刀には聞こえていない事に気が付いても、目の前にある鏡に向かって叫ぶように呼び掛け続け、握った拳を叩き付ける。
鏡が見慣れた研究室の光景を写し出し、視点を変えて再び疾刀の姿へと戻る。
いくら泣き叫んでも、その声は目の前の疾刀にまでは届かない。
奈津菜は拳に痛みが感じられないことにも気付かずに、鏡を叩き続けた。
『私は行かなければなりません』
『――どちらへ?』
『戦場へ。傷ついた兵士たちが待っています』
その言葉に、ようやく疾刀が不信感を抱いた。
それが顔に現れたのを見て奈津菜は喜ぶが、状況が大きく変わった訳では無い。
『……あなた……新見 奈津菜さん、ですよね?』
「違う!私はここにいるのよ!
お願い、早く気付いて!」
奈津菜は、奈津菜の姿をした女神が微笑んだのが分かった。
その魅力的な微笑みに、疾刀の顔と警戒心とが緩む。
彼女の唇が僅かに開かれ、奈津菜は反射的に自分の口を塞ぐ。
だがそれだけでは、奈津菜であるはずの女神の唇までは止められなかった。
『ええ、もちろん』
「違ぁーう!」
力の限り叫んだ奈津菜は、最後に両手を鏡に叩き付けると、その場に泣き崩れた。
もう見るまでも無く、疾刀が彼女を信用しているのが分かった。
『違う』
それは、ほんの小さな声だった。
奈津菜はそれを聞き逃し、視点が下に向けられて楓の姿が写し出されたことにも気付かなかった。
『あなたは新見 奈津菜じゃない』
二言目は、はっきりと聞こえた。
奈津菜も聞き逃さない。
それが楓の声であることには気づかず、上げられた顔には喜びの表情が浮かんでいた。
『何故、あなたが出て来るの?』
声の主が、目の前の小さな少女であることに気付いて、喜びが驚きに変化する。
『あなたが現れる事なんて、無い筈なのに』
『あなたは、私の事を良く知っているのですか?』
小さな頭が、ゆっくりと縦に動く。
『あなたはあなたの名前を忘れたの?』
『私の名前は、新見 奈津菜。それ以外の何者でも――』
『違う』
きっぱりと言い切るその態度は、幼いながらも頼もしかった。
最早、奈津菜の運命は彼女に託すしか無かった。
『では、私は誰だと言うのですか?』
彼女と共に、奈津菜は楓の答えを待つ。
まだ紅を引いた事も無いであろう、瑞々しい唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『あなたはアテネ』
ピシッ。
鏡に亀裂が走る。
女神の代名詞とも言えるその名は、確かに鏡に写し出された姿に相応しいものであった。