第30話 婚約
「百合音が優勝した場合には……」
もったい付けて、そこで間を置く。そして主任の肩をポンと叩いて言った。
「この子と結婚するってことで、どう?」
「……はひ?」
俺の口から間抜けな声が飛び出した。
「も、もう一度、言ってみてくれないか?」
落ち着かない声で問い質す。今、気のせいか、一生が掛かった大問題が、軽々しく決まろうとしなかったか?
「百合音と結婚するの。卒業するまでは待ってあげるから」
……気のせいでは無かったらしい。
「お、俺の周りって、悪質な冗談を言う奴、多いなぁ……」
震える声で、俺はようやくそれだけのセリフを口にした。
「ちなみに冗談じゃないからね」
俺が主任の様子を窺うと、彼女はほんのりと頬を赤らめて俯いていた。
……コ、コレは……本気なのか……?
「しゅ、主任と……?」
「ちょい待ち。
その呼び方は、無いんじゃない?
百合音さん、とか、百合音ちゃん、とか。あとは、単に百合音って呼び捨てるのもいいわよね。
ね、百合音?」
小さく頷く主任。バイト中に会った時とは別人のようだ。
色恋沙汰には関係ありませんという態度の、キャリアウーマン然とした人だった筈だが……。
「アンタの言ってた条件を満たしているんだし、文句無いでしょう?」
「お、俺の言ってた条件……?」
何だ、それは?そんなものを言った覚えは無い!
「和服の似合う、大和撫子。眼鏡は却下、コンタクトレンズならOK。
ほら、ピッタリじゃない。
社内での評判も良いし、アンタには勿体無いぐらいよ」
「勿体無いなら、要らん!」
正直にそう言った途端。
「酷いっ!」
主任が非難の叫びを俺に浴びせた。
「何が酷いんだ?」
「おおっ、ケント!助けてくれ!」
背後からの声に振り向けば、試合を終えたケントがそこには立っていた。
藁にも縋るような思いで俺は助けを求めたのだが。
「……何を助ければ良いんだ?」
「主任と――降籏さんと結婚させられそうなんだよ!」
「何を今さら。それは既に決まっていた事だろう?」
水より……いや、鉄よりも遥かに重い藁に縋ってしまったらしく、却って深みにはまり込んでしまった。
「そもそも主任は――」
「駄目だって言ったでしょう。
百・合・音。ちゃん付けでも、さん付けでも良いから」
冗談ではない。主任をそんな呼び方をする気には、とてもではないがなれず、妥協案を提示する事にした。
「頼むから、せめて降籏さんということで、妥協してくれ」
「……ま、良いでしょう」
うるさい小姑は、そうして適当に受け流しておいて。
「そもそも降籏さんは、どうして俺と結婚したがるの?」
様々な情報を聞いていると、他の連中が結婚させたがっているだけではない。
彼女が俺と結婚したがっているという節が見られる。
顔だけなら、客観的に見ても、俺よりケントの方が上な筈だ。
そもそも、何故いきなり結婚に話が飛ぶのだろうか?
「あの……私、結婚はそろそろしたいなと思っていたんです」
相手に俺を選ぶな。迷惑だから。
「……それで?」
「けど……何か、男の人って、怖いっていうか、抵抗感があって……」
……嫌な予感がするぞ。
「蒼木さんだったら、男の人って感じがしなくて……」
チラッと俺の顔を覗き見ながら、そう言った。予感的中というわけだ。
「それって、嫌味?」
「違います!」
嫌味ではないと分かっていながら、俺は確認せずにはいられなかった。
似たようなセリフを、俺は何度言われたことか。
一人の例外を除けば、悪意があって言っている訳では無い。
そうとは分かってはいるのだが、やはりそれを言われるのは、何か嫌だ。
「はいはい、話はそれまでよ。
とにかく、賭けは成立したからね。私が証人よ。
百合音、出番よ、ほら」
……相手が美菜姉ちゃんでは、もう賭けを反故にする事など、不可能に近いな。
そう思いながら、俺は降籏さんの試合を観戦しておこうと、美菜姉ちゃんの指差す先にあるスクリーンを見て。
「……はひ?」
先程まではケントの試合が写し出されていた筈のその画面に、次に出番を控えたキャラクターの名前を見つけて。
「あら、見ちゃったの~。まあ、もう別に構わないけどね~」
美菜姉ちゃんのわざとらしい声と――
「なんだ、蒼木。昨日見て、知ってたんじゃなかったのか」
ケントの能天気な声を聞きながら。
「じゃ、じゃんぬ・だるくぅぅぅぅぅぅ?」
俺は再び、間の抜けた声を喉から絞り出した。
愕然とした俺は、知らず知らずの内に折れた膝を地面につけていた。
「じゃあ、行ってきます。必ず勝って来ますから」
そんな言葉が、俺の耳に届いていないことも知らず、彼女は俺の傍らに立ってしばし逡巡してから。
ピューゥ。
――二人の口笛に見送られて、筐体へと向かった。
俺の頬に、うっすらとしたキスマークを残して。
「仲人は、私がやってあげるからね。
……妙な考えを起こしたら、許さないわよ?」
……今日はひょっとして、とびっきりの厄日・天中殺ではなかろうか?
……そうそう。美菜姉ちゃん。仲人やるって言ったって、アンタ、結婚してないだろうが。
俺の知識では、仲人は結婚している人がするものの筈だぞ。