詩織先生

第6話 詩織先生

 狼牙にとって、詩織との出会いだけは嬉しかった。
 
 彼女と触れ合っている時だけは、幸福を感じることが出来た。正直、神様に感謝したいぐらいの幸福を。
 
 だから余計だろう、彼に十字架は通用しない。
 
 先祖たちは苦手意識を持つ程度には嫌がっていたらしいが、狼牙にとっての十字架は、日本人で言う「普通」と、さほどかけ離れていない程度の感覚しかなかった。
 
 ……子供の頃は、多少苦手だったが。
 
 では、何故ゴスペルは駄目なのだろうか。それが不思議なところだと彼は思う。

 聖書も、読んだことは無いが、多分、駄目だろう。
 
 恐らく、宗教的で心に訴えかけてくるものが駄目なのだ。小学生の頃に自覚したよう、適度な狂気を持ち合わせているのが、彼にはベスト・コンディションなのだ。
 
 ……まぁ、行き過ぎた宗教は、十分に狂気と言えるだろうが。
 
 その狂気の加減を調節するのに丁度良いのが、先祖の日記の翻訳である。先祖の日記は、イコール、狂気の記録と言っても過言では無いのだから。
 
 日記を翻訳してゆくと、狼牙は段々気分が落ち着いてきた。
 
 彼は、ホラー映画もそれなりに好きなのだが、その理由が「落ち着くから」というのだから、普通じゃない。
 
 もう一つ、理由として、「詩織と一緒に観ていると、彼女が抱き着いてくるから」という理由もあるが、これは彼が男であるが故の、スケベ心の現れだろう。
 
 ある程度、翻訳したところで、それをパソコンのワープロソフトを使って打ち込んで行く。
 
 とりあえずは、直訳だ。それから後で、脚色を加える。
 
 これで小説を出すペースが年に三本位なので、既に『吸血鬼の手記』シリーズは二十八巻を刊行済み。今、二十九巻を執筆中。
 
 詩織はそれらを全て読んで、全ての感想を聞かせてくれている。
 
 狼牙に文才、つまり文章を書く才能は無いが、文を書く能力は、詩織からの感想を聞くことで、かなり上達していた。
 
 「どこどこが良かった」、「どこどこがイマイチ」という曖昧なものから、「あそこの心理描写が足りない」とか、「あそこはこう書いた方が良かったんじゃないか」と、具体的なものもあり、まるで狼牙の先生である。
 
 勿論、出版社の人が推敲の最終段階をプロの目線で修正しているのだが、読者目線で求められる要望は、詩織の方が確かであった。
 
 狼牙はある程度書いたところで、一度休憩を入れた。その間に、冷蔵庫から取り出したトマトジュースを飲む。――塩分が足りないので、少々足して。
 
 休憩している間に、狼牙は電話を一本入れた。近くの大学病院の、口腔外科への予約の電話だ。
 
 目的は、犬歯を抜いてもらう為。
 
 大学の時に親しかった女性がそこに勤めており、人払いをして他言無用の上、問答無用で抜いてくれるので、かなり助かっている。
 
 代わりに、何度か食事を奢らされたことはあったが。
 
 その女性・河合かわい 春華はるかのことは、詩織にも実際に合わせて説明していて、親友ではあるが、恋人でも無ければ浮気相手でも無いことを、しっかりと証言して貰っている。
 
 食事の奢りは、浮気に含まれない事を証明する為、詩織も同席することと決まっていた。
 
 
 予約は、一週間後に取れた。特に何も無ければ、伸びすぎて目立ってくる前に抜ける筈だ。
 
 困ったことに、犬歯の伸び具合はその時の条件によって、違うのだ。これには、狼牙も悩まされている。
 
 日記による記録では、抜いてから三日で完全な牙と化した事があるので、一週間は絶対に大丈夫という期間では無かった。困ったことに。
 
 電話を終えると、予約を入れた日時をカレンダーに書き込み、トマトジュースを飲み干して再び日記の翻訳作業に取り掛かった。詩織の意見を参考にした、脚色を入れて。
 
 しばらくしてから、それを再びパソコンに打ち込み、打ち込み続けること、しばし。また休憩に入った。
 
 パソコンが古いせいか、長時間使い続けていると、文字化けしてしまうのが、こまめに休憩を挟む理由だ。
 
 今度の休憩では、外に出ることにした。
 
 全く目的が無い訳ではない。詩織に頼まれていたDVDを探すことだ。ついでに食料も買い込もうと思っていた。
 
 出掛ける服装は、例の葬式ルック。特に大切なのが、サングラス。黒いハンチング帽も地味に重要だ。昼間の日差しは、彼にとっては強すぎる。
 
 そう思って出かけたのだが、外は生憎の、いや、絶好の曇り空。雨雲ではない。恐らく雨は降らないだろう。狼牙にとっては、最高の天気だった。
 
 気温は、彼にとって問題ではない。極端に暑くない限り、汗もそれと分かるほどはかかないし、どんな熱帯夜でも、彼は速やかに熟睡することが出来た。
 
 逆に、冬の寒さも平気だった。彼の家では暖房というものを入れたことが無い。黒のロングコートを羽織ることはあっても、目的は寒さからから身を守る為ではなく、単なるファッション。
 
 そんな恰好をしているからか、街を歩くときには、周りの反応は二種類。避けるか、絡むか。
 
 絡み方にも、二種類ある。男の場合と、女性の場合だ。
 
 女子は、逆ナン。男は、喧嘩や恐喝。
 
 どちらにしろ、狼牙の反応は決まっていた。即ち――拒む。
 
 それでも無理矢理来た場合には、頭を掴み、力を込めて握ってやれば、大抵は――女性の場合は100%――逃げて行った。
 
 計ったことは無いのだが、細身の体にしては信じられない位の力があり、林檎を簡単に握り潰す程の握力がある。
 
 それでも逃げない強者に対しては、狼牙の特殊能力の一つ、エナジードレイン。それで無力化することにしていた。