紗斗里

第33話 紗斗里

「隼那お姉ちゃん!」

 楓たちから見て最も遠い窓の縁に座る、頭の禿げ上がった女性。
 
 髪の毛が無いだけで印象が随分と違って見えるが、その声は間違いない。元のアテネ使い、隼那だった。
 
「ごめんなさいねぇ、遅れちゃって。

 アメリカのイージス使いの所まで、ネット組むのに会いに行ってから、更に東京の方を片付けてきたものだから。
 
 危ないところだったけど、どうやら恭次も助けられそうね。
 
 ……ちょっと、そこのお兄さん?パンサーからキャットに切り替えてくれないかしら?
 
 このままだと、これ以上近付けないのよぉ」
 
 相変わらずの、体にピッタリとした衣装。そしてその言葉遣いと禿げ上がった頭。
 
 やはりその頭が、どこかアンバランスに見える。
 
「きっ、貴様ぁ、ここでも邪魔をするかぁ!」

 再びルボワが放つ、グングニル。目標は隼那へと変えられている。
 
 だが結果は同じで、巨大なイージスに突き刺さると光の波紋となり、消える。
 
「馬鹿ねぇ。相手は二千人……ダークキャットの相殺に使われたのを差し引いても、千人以上の生み出す女神の盾よ。

 個人の放つグングニルなんかで、貫ける訳が無いじゃない。
 
 ――ねぇ。早くパンサーのスイッチを切ってよ」
 
 一度目は何の反応も示さなかった疾刀も、二度言われてようやくソフトを切り替える。
 
 待ってましたと言わんばかりに、隼那のサイコワイヤーが楓に向かって伸ばされる。
 
 楓も、ネットに組み込まれる事を拒まない。
 
「命乞いしたって、許さない!」

 隼那の右手がルボワへと向けられた。少女が庇うようにその前に立ち、イージスを展開する。
 
「受けなさい!一千人の怒りを!」

 現れたのは、槍と呼べるものではなかった。例えるなら、巨大な歪み。
 
 二人の姿が、ソレが現れると同時に、音も無く消え去る。イージスですら、ひとたまりもない。
 
 その背後の壁までもが、瞬時に気化して大穴を穿つ。
 
 支えを失った天井の一部が崩れ、ケベックは危なくその下敷きとなるところだった。
 
「――式城 紗斗里……?」

 余りにも桁外れの力。それを見せられては、ケベックがそう思うのも無理は無い。
 
 顔を向けた隼那の瞳の中に、死神の姿を見たような気がした。
 
 これほどの差があるとは夢にも思わず、抵抗する気にもなれない。
 
 その手に光の槍が現れたのを見ると、そっと目を閉じ、最後に娘への別れと謝罪の言葉を、ささやくように空へと溶かす。
 
 願わくば、幸せになって欲しいという思いだけは届くようにと。
 
「待って!」

 その命を救う、少女の一声。
 
「この人は、殺さなくても大丈夫だと思うから」

 目を開く。隼那は未だ、光の槍を構えたままだ。
 
「いっそのこと、死んだ方がマシなのかもな」

 頭のメモリーワイヤーを引き千切るように取り外しながら、ケベックは娘の事ばかり考える。
 
「恭次はどうなったの?無事なんでしょうね?

 それにそっちの女の子、死んじゃったの?」
 
 他人の心配ばかりしているのが、もう一人。
 
 恭次の左腕が失われているのを見ると、早速悲鳴を響かせた。
 
 グングニルも消し去って心拍・呼吸共に無事であることを確かめ、辺りに千切れた腕が転がっていないか、探ってみた。
 
 それが既に失われていることを知ると、傷口の辺りを両手で握った。
 
「スザク!この位治さないと、承知しないからね!」

「駄目だよ。スザクにそこまでの力は無いから」

 楓の言葉には聞く耳も持たず、隼那は癒しの為の力に全てを注ぐ。
 
 あっという間に傷口の火傷は治るが、決して生えては来ない。
 
「何でよ!千人分の力なのよ!」

「待ってて。奈津菜お姉ちゃんを助けて貰うついでに、紗斗里に治して貰うから」

「……え?

 ちょっと!どこ行くの、楓ちゃん!」
 
 楓は小走りに目指すものへと向かった。特大の光の槍で開かれた穴のすぐ傍。
 
 探していた物は、無事にその床に転がっていた。
 
 ソレを拾うと、皆の居る場所へと引き返す。
 
「スマホ?電話で呼んでくれるの?」

「ちょっと、違う」

 やり方を知られたくないので、隼那とのネットには組み込まれないように注意する。
 
 極細のメモリーワイヤーで編まれたパーカーの内側、首筋の辺りから一本のコードを取り出し、後頭部にある六角形のプラグに差し込んだ。
 
 そして、スマホと連結してネットを組む。
 
 接触して行っていれば、傍から見られただけでは分からない筈だ。
 
 それによって、傍から見ている限りでは分からないが、パーカーの中にデータとして眠っていた、ほぼ全てのサイコソフトの生みの親である究極の人工知能プログラムが起動した。
 
「電話を掛ける訳じゃ無いのかい?」

 その事に気付かず、疾刀はそう問い掛ける。
 
「掛ける必要は無いよ。

 インターネット回線を通じて、僕とを繋ぐ、切っ掛けが欲しいだけだったからね」
 
 返って来た凛々しい声に、隼那だけでなく疾刀も驚く。
 
 楓であったはずの少女は、スマイルで軽く会釈する。
 
「はじめまして。この子が、随分とお世話になったようですね。

 僕は式城 紗斗里。こんな姿をしていますが、今年で丁度八十歳になります。
 
 ……まぁ、堅苦しい挨拶は抜きにして、早速、その二人を癒しましょうか」
 
 恭次へと歩み寄り、手を翳す紗斗里。
 
 触れてもいないのに、恭次を光が包み込んだ。
 
 光は失われた左腕さえも模っている。
 
 僅かな時間の後にその光が消え去ると、左腕は見事に蘇生を果たしていた。
 
「――凄い。フェニックスよりも全然早い」

「フェニックスの、あの生えてきているグロテスクなシーンを見るのは嫌いなんだ。

 あとはしばらく待てば、目を覚ますよ。
 
 さて、こちらの女性は……これは酷いな。心臓と背骨が一部、失われている。
 
 確実に助ける為には、このままではダメだろうな」
 
「あなたでも、助けられないのですか?」

 疾刀は雰囲気に押されて敬語を使う。
 
 その目の前で、立てられる人差し指。
 
 紗斗里は首を少し傾け、眉を片方だけ吊り上げ、口元には笑みを浮かべてその指を左右に動かす。
 
 その動きに合わせて、チッチッチッという舌打ち迄してみせた。
 
「僕に助けられないのなら、わざわざハヌマーンを危険に晒す真似などしないよ」

 左手が、後頭部に伸ばされる。
 
 取り出したのは、一つのソフト。
 
 そこに刻まれた名は、『TIGER WHITE』。自分自身の超能力を封じるサイコソフトだ。
 
「ほんの少し、遊ぼうか」

 楽しそうだが、意地の悪い笑顔。
 
 奈津菜の近くでしゃがむと、下に向けた小さな掌で傷口の上を撫でるように滑らせる。
 
 ソレが横切ったほんの一瞬で、傷口はおろか、服に開けられた穴までもが消え去っていた。
 
 その胸に耳を押し当てると、力強い鼓動がはっきりと聞き取れた。
 
「良かった……死なせずに済んだ……」

 その安堵による脱力感で、疾刀は天を仰いで大きくため息をついた。見ていた二人が、感嘆の声を上げる。
 
「未だ、終わってないよ。呼吸が止まったままだからね」

「そんな……!」

 疾刀を見上げる、満面の笑み。
 
 ソレを見て、わざとそうしたのではないかと、思ってしまう。
 
人工呼吸マウス・トゥ・マウス。知ってるだろ?

 口から口へ、呼吸を吹き込むだけで大丈夫だから。
 
 早くしないと、本当に死んじゃうよ」
 
 紗斗里は奈津菜の唇を、ちょんちょんと人差し指で軽く叩いて示した。
 
 疑問が確信に変わり、疾刀は渋い顔をする。
 
 人工呼吸を行う事は、迷わず決める。
 
 だが、僅かな躊躇いからか、その顔はゆっくりと近付けられる。
 
 幸か不幸か、正確なやり方を疾刀は知らず、言われるままにただその口で息を吹き込もうとしていた。
 
 くすっ。
 
 実に楽しそうに、紗斗里は笑った。
 
 十分に二人の顔が近付いてから、奈津菜に向かって人差し指をピンッと弾く。ついでに、現状をテレパシーで奈津菜に伝える。
 
 奈津菜が目を開いた事には気付かぬまま、疾刀はその唇を重ねた。
 
 様子がおかしいことに気付いた時には、その首には奈津菜の両腕が絡められ、もがいても離れる事は出来なかった。
 
「こういう罪の無いイタズラは、何度やっても楽しいね」

 二人の長いディープキスを眺めながら、再び紗斗里は、クスリと笑った。