第1話 皇帝ゼノ・ヴァリー
コン、コン。
ノックの音が、静かな部屋にやけに大きく聞こえた。
ギシィッ。
軋んだ音を立てながら、その薄暗い、広めの書斎を思わせる部屋に、唯一人居た男は、椅子を反転させた。
「誰だ?」
顔に仮面を被っている為、くぐもった声をその男は発した。
どこか嗄れ声で、老人のものに聞こえる。
その声に応えて、扉の向こうから声が聞こえた。
「ステイブです。例の調査隊のメンバーが決まりましたので、報告に参りました」
「入り給え」
「失礼致します」
ガチャッとドアノブを捻り、青年とも中年とも言い難い、三十代前半と思われる雰囲気の男が、片手に書類の束を抱えて、部屋へと入って来た。
「先程も申し上げました通り、調査隊のメンバーが決まりました。
しかし……。
皇帝陛下。本当にこれでよろしいのですか?
私には、あたら優秀な人材を浪費してしまうようにしか思えません!」
「優秀でなければ、困るのだよ。
それに、左遷するには十分な口実も、人事によって行われているであろう?」
「私には、その人事が理解出来ません!
あれほどの優秀な者たちを、何故あのような、撤退寸前の過酷な戦場に送り出すのですか!
私にはまるで、左遷するための理由作りの人事としか思えません!」
「その通りだよ、ステイブ中将」
ステイブは、目の前に座る男の言葉に、彼の正気を疑った。
聞き違いかとも思ったが、次の発言でそうではないことが分かった。
「他国に、このプロジェクトの真相を探られては困るのだよ。
だからこその人事だ。左遷と思わせる、な。
君も、例の古文書の、コピーファイルは読んだのだろう?だとしたら、理由は言わずとも分かる筈だ」
「しかし、あれは信憑性に欠けています!
何か、それを裏付ける証拠が無い限りは……」
「その証拠があるのだよ、ステイブ君。
君も見たいかね?この、竜の鱗を」
椅子に座っていた男は、引き出しの錠を解き、そこから縦横30センチほどもある巨大な鱗を取り出した。
「それが、証拠という訳ですか」
「ああ。
ウチの錬金術師達に調べさせたが、傷一つすら付ける事は出来なかった。
当然、この鱗に関する調査は、何一つ実を結ばずに終わってしまった。
しかも、それだけの硬度を持ち合わせながら、この鱗は驚く程軽い。まるで羽のようだ。
――君も一度、持ってみるかね?」
差し出されたその一枚の鱗に、ステイブは恐る恐る手を伸ばした。
そしてそれを受け取り、その余りの軽さに驚かされた。
「竜は恐らく、空を飛ぶ。それ故の、鱗の軽さだ。
そして、竜を捕獲し、その鱗によって鎧を作れば、どの国にも負けぬ兵隊が作り出される。
それが、私がこの作戦を急ぐ理由だ。
その代償として、このプロジェクトの参加者には、巨額の報酬を与えようと思っている。
それならば、兵も分かってくれるだろう。
君も、分かって貰えたかね?」
「――はい。了解致しました。
しかし陛下、一人だけ、問題のある者がいまして……」
「――問題のある者?」
男は手を組み、肘を机の上に立てて、その上に顎を乗せ、問い返した。
「ええ。
単独で敵地へと侵入し、リーダー格の男を射殺し、敵軍の指令系統を崩し、撤退させた者がいます。
その男は、以前から射撃においての優秀性において定評があり、『シューティング・スター』との異名を持つ、レズィン・ガナットという名の男です。
彼については、如何なさいましょう?」
「レズィン……ガナット?
その男の資料はあるかね?」
「はい、こちらに」
ステイブは手にした書類の束の中から、一枚の履歴書を取り出し、椅子に座る男に手渡した。
機密書類として取り扱われている履歴書だ。
男はそれを受け取り、サッと目を通した。
「――中々、優秀な男だな。
しかし、敵地へ侵入したのは、指揮者の命令かね?」
「いえ、そのような命令は下していないと報告されています。
その男の取り扱いは、如何なさいましょう?」
男はその履歴書を机上に置いて、こう言った。
「命令違反は、重罪だ。左遷の理由には手頃だろう」
「し、しかし、彼の功績は――」
「敵軍を撤退させた功績は、全て指揮官のものだ。
違うかね?」
ステイブは喉元まで「違います」という一言が飛び出しそうになった。
だが、28という若さで中将にして皇帝の副官という地位にまで上り詰め、以来、それ以上の昇進は無かったものの、粉骨砕身で続けた努力を、そのたった一言で無にしたくは無かった。
「そ、その通りです」
よって、彼にはそう、躊躇いがちに言うのが精一杯だった。
「分かったのなら、それでいい。
では、プロジェクト・ドラゴンを開始したまえ」
「それについて、一つ意見がございます」
「何だね?」
仮面の男は、机の上で手を組んで、仮面によっても覆われている自身の口元を隠した。
「何故、調査隊にサンプルとして樹液を採取させるのですか?」
フゥッと、仮面の男は大きく一つ、嘆息した。
「竜は、特殊な樹木の樹液を、生きる糧とするらしい。
その、特殊な樹木の生息域を調べれば、竜の生息域も自ずと分かると云うものだ。
分かったら、さっさとプロジェクトを開始したまえ」
「――はい。分かりました。
それでは、失礼致します」
カツ、カツ、カツと、ステイブの立ち去る足音が聞こえて来た。
十分に彼が遠くに立ち去るまで、仮面の男は動かなかった。
「――彼もそろそろ、捨て頃だな」
十分に遠くに立ち去ってからそう言い、竜の鱗を取り出したのと同じ引き出しから、一冊の古びた本を取り出した。
そこに記された著者の名は、『ランクルード・ガナット』。
仮面の男は、呟くように履歴書の名前を読み上げた。
「レズィン……ガナット……。
偶然であれば良いのだが……」
本の題名は、『世界樹と錬金術の関係について』というものだった。
「竜は、世界樹の守護者だ。
竜の居る処、世界樹の支配下にある、その中心部に、世界樹はある。そして、賢者の石も!」
云った彼は、その古いホント竜の鱗を引き出しに仕舞い、再び鍵を掛けた。
男は立ち上がり、背後にあった窓へと近付くと、普段は閉ざしているカーテンを開き、そこから見える街の光景を見下ろし、仮面に手を掛けた。
「彼女の事は、諦める。恐らく、もう生きてはいまい」
男は、仮面を外し、その素顔をさらけ出した。
「待っていろ、世界よ」
さらけ出された素顔は、未だ20を幾つも超えていないと思われる若々しいものであった。
「この私、皇帝ゼノ・ヴァリー様、そして、我ら冷遇された錬金術師たちの手で支配してくれる!」
喉に取り付けられた、何らかの装置。それを外すと――
「永遠にな」
変声期を過ぎてから、未だ間もない程度に思える程、若々しい声が発せられた。
皇帝ゼノ・ヴァリー。即位してから、もう五十年近くになるある日のことだった。