浸水

第41話 浸水

「……アンタ、最初からラフィアが目的だったのか?」

 レズィンは皇帝の肩を空いた手でつかみ、やや強引に振り向かせるとそう訊ねた。
 
「まさか。ラフィアが見つかるとは思っていなかったよ。

 研究所から行方不明になったまま、手掛かりの欠片すら無く、100年近い年月が経っていたからな。
 
 探していたのは、研究の対象だった幾つかのものだ。
 
 君のお陰で、ほとんどが見つかりそうだよ、レズィン・ガナット。
 
 ……そうか。今まで気付かなかったが、まさかインプリンティングなのか?
 
 だとしたら、君は邪魔だ。
 
 研究所の連中には悪いが、私の幸せの為に死んで貰おうか」
 
 皇帝がそう言って右手をレズィンに向けるのと、シヴァンが手を差し出してその手を覆うのとは、ほぼ同時だった。
 
 気が付けば、シヴァンのその手の甲から針の先端が顔を見せていた。
 
「何故この国の者共は、すぐに人を殺したがる!」

「うがあああああああああ!」

 嫌な音を立てて、皇帝の右手が握り潰された。
 
 激痛に顔が歪み、悲鳴にも似た叫び声が上げられる。
 
 壊れた拳銃がその手から零れ落ち、奇形に歪められた手が現れる。
 
 やり過ぎなのではないかと、レズィンも流石に同情の念を抱く。
 
 シヴァンは皇帝の手を放してから、掌に突き刺さった針を歯でくわえて抜き取った。
 
 ピチャン。
 
 床に落とされた針が、小さな水音を立てた。
 
 足元を見れば、床一面を浅く水が覆っている。
 
「もう、ここまで来たのか。

 姉さん、いい加減冷静になってくれ!
 
 このままでは、この街は飲み込まれてしまう!
 
 レズィンも、姉さんを止めてくれ!」
 
 言ってから、シヴァンは苦しそうにき込む。レズィンの支えが無ければ、とても立ってられそうには見えない。
 
「馬鹿な……この研究所が浸水する等、有り得ない!」

 水面は目に見える早さで上がっていく。
 
 もうすぐ膝に届かんばかりの勢いだ。
 
 何処から水が流れ込んでいるのか分からない。
 
 水の流れすら無い。
 
 慌ててさえいなければ、既に水に浸かっている辺りに、水に触れている感触が感じられないのが分かった筈だ。
 
 逃げようにも、階段まではかなりの距離がある。
 
 水面がもっと高くなれば、浮いて上手く天井の穴から上へ行けるだろうが、その先を逃げ切れる保証はどこにも無い。
 
「……ラフィアか?これもラフィアがやったことなのか?

 だったら、さっさと止めてくれ!医務室には動けない奴らも居るんだ!
 
 皆、死んじまう!」
 
「どうして?

 わたしとレズィンは死なないもの。それでいいでしょ?」
 
「いい加減にしやがれ!」

 パァーン!
 
 ラフィアの頬が高い音を立てる。
 
 叩かれた場所を手で押さえ、信じられないと云った顔でラフィアは暫し呆然とする。
 
「元を辿れば、全部お前らが原因じゃねぇか!」

 リットが死んだのも、フィネットが大怪我を負ったのも、レズィンにも責任が無い訳じゃないが、元はと云えば、姉妹を連れて来たのが原因。
 
 皇帝も含めて、ここにいる全員が悪いと、レズィンは思った。
 
「もう――イヤあああああああああああ!」

 ラフィアが叫び、水面が一気に上昇する。頭の上を通り越し、天井まで届く。
 
 それだけの水位だというのに、水中ならば働くべき浮力が、全くと言って良いほど感じられなかった。
 
 目を開けば、水は空気のように透き通っている。
 
 不思議な感覚が全身を襲う。
 
 何故か、レズィンには覚えのある感覚だった。
 
 何処で感じた間隔なのかまでは、今は思い出せない。
 
 気が付けば、視界が真っ白に染まっている。
 
 肩を貸していた筈のシヴァンの姿まで見えない。
 
 濁っていて見えないのではなく、遠くまで見えているような感覚なのに何も見えないのだ。
 
 辺りを見回す内に、レズィンは全身を包み込む感覚と広がる風景を、何処で感じ、そして見たのかを思い出した。
 
「あの城だ……」