第15話 本当の楓の姿
バサッ。
今日もまた、朝食前のささやかな一時を、新聞を読みながらのんびりと過ごす。
昨日の恭次が起こした騒ぎは、他に大きな事件が無かったせいもあり、大きく取り上げられていた。テレビはまだ付けていない。
「疾刀は、僕に何も聞かないの?」
焼き上がった目玉焼きをテーブルに運びながら、楓は訊ねた。
「妹になるのなら、お兄ちゃんと呼びなさいと云ったでしょう?」
一言だけ云うと、再びその目は新聞へと向けられた。
楓はお盆を抱えたまま立ちすくむ。食事の準備は未だ終わっていない。
「……ありがとう」
呟くような小さな声でお礼を述べて、台所へと小走りで戻るその姿が、何とも言えず可愛らしかった。
「……そう云えば、学校はどうしよう?」
学校に関する小さな記事が目に止まり、ふとそんなことが気に掛かった。
それ以前に戸籍の問題もあるのだが、疾刀はそこまで思いが至らなかった。
その、学校に関することを考えると間も無く、楓が台所から野菜の炒め物を持って現れた。
「楓ちゃん、学校はどうするつもり?」
「学校?
僕は、一通りの教育は受けている。専門的な知識なら、ヘタな教授には負けない。
そんなことより、僕はソフト・ドクターとして働きたい。
目立ちたくは無いけれど、いつまでもハヤ――お兄ちゃんのお世話になっている訳にもいかないから。
それに、ソフトが合わなくて困っている人や、どんなソフトが自分には使えるのかを知りたい人も多いと思う。
もし、周りにそういう人が居たら、教えて欲しい」
「もっと大きくなってからで良いよ。
それじゃあ、ご飯でも食べようか」
楓の手から受け取った皿を、テーブルに並べてご飯をよそう。
そして、みそ汁を注ごうとしたところで、様子がおかしい事に気が付いた。
「どうしたの?」
「……成長しないの。これ以上」
俯いた彼女の目の辺りから、一滴の雫が零れ落ちる。
全身が震えている。
泣くのを堪えようとして唇を噛みしめ、目元を袖で拭うが、次から次へと涙が溢れて来る。
「こんな姿、もう嫌なのに。
どう調べても、操り方が分からないの。
誰も、僕を大人として扱ってくれない!」
疾刀はその背中を優しく擦る。だが、その手は乱暴に払い除けられた。
「子供扱いしないでよ!」
叫んだその一瞬、その顔が大人のものに見えた。
疾刀は一度、目を瞑り、大きく息を吸い込むと、目の高さを合わせるようにしゃがんだ。
そして再び開いたその目で、彼女の瞳を射抜く。優しげだが、真剣な眼差しで。
「君が女性だから、僕は君に優しくしてあげたんだよ」
楓の呼吸が、瞬間止まる。一瞬遅れて、涙が目尻ばかりでなく目頭からも流れ出す。
思わず疾刀の首に抱き付いていた。
疾刀もその背に両手を回す。
――ピンポーン。
間の悪いチャイム。こんな時間にと気にはなったが、疾刀は無視する事にした。
ピンポーン。
二度目は、聞かなかった事にする。
……ピンポーン。
「……ゴメン」
せめてこの位はと思って指先で涙を拭ってやると、疾刀は玄関へと向かった。
表情には出さなかったが、内心、不機嫌だった。
「どちらさまですか?」
チェーン越しに扉を開けると、そこには恐らく外人と思われる二人が立っていた。
もしかすると日本語は通じなかったかも知れないと思う。
そしてそもそも、何の用事かと疑問に思った。
「風魔 疾刀だな?
我々は、セレスティアル・ヴィジタントの者だ。
我々と共に来てもらおう」
流暢な日本語だった。そのことにも、飛び出した単語にも驚いた。
「……あなた方が、この僕に何のご用件ですか?」
「云う必要は無い。
黙って我々に従いたまえ」
「お断りします」
疾刀は扉を閉ざそうとしたが、既に靴を挟むように阻まれてた。その男の身体が、僅かに輝く。
「場合によっては、実力行使に訴えさせて貰う」
男は扉を開けようと手で扉を握ると、握った部分から白い煙のようなものが立ち昇る。
即座に疾刀はパンサーのスイッチを入れるが、通用しない。――ファフニールだ。
「分かりましたから、手は離して下さい。
朝食が済むまで、お待ち願えませんか?」
「いいだろう。
ついでに、テレビも見ておくと良い」
扉の、男が手で触れていた跡は、僅かに溶けて歪められていたが、扉を閉ざすには支障の無い程度だった。
靴が引き抜かれたのを確認すると、扉をゆっくりと閉ざし、食卓へと向かう。
「楓ちゃん、僕が出掛けてからしばらくしたら、昨日のあの二人を探しに行って。
それで、僕がセレスティアル・ヴィジタントの人に連れて行かれたって伝えて」
疾刀の言葉に、何が気に入らなかったのか、楓は口を尖らせた。
「やっぱり、子供扱いしてる」
「――え?」
云われてから、ちゃん付けしている事に気が付いた。
「ご、ごめんなさい、楓さん。
今後は気を付けますから」
慌ててフォローすると、楓はやけに嬉しそうな笑顔で切り返す。
「冗談だよ。
良いよ、楓ちゃんで」
声までもが、珍しく嬉しそうに聞こえた。そのイタズラ心に、疾刀は舌を巻いた。
「早く食べよう。冷めちゃう前に」
それでも、明るく振舞う楓を見ていると、久しぶりの家族の存在が感じられて、待っている連中がとてつもなく恨めしく思えた。
テレビの電源を入れ、二人は揃って食卓に着く。テレビを入れたのは、そう云われたからではなく、単なる習慣からであった。
「――は、以上である。
繰り返す――」
一瞬、画面が乱れた。
画面に大きく写し出された見覚えの無い外人の男は、声高らかに演説らしきものを行っているようだった。
これもまた流暢な日本語であったが、疾刀はそれを気にせずに醤油に手を伸ばそうとした。
「――私は、セレスティアル・ヴィジタントの代表、ルボワ・アイゼルクである――」
テレビの男の発言に、即座に反応して首を回す。
リモコンに手を伸ばし、テレビの音量を上げる。
「我が組織の代表として、諸君らに伝える。
国の主要部は、我々が占拠した。本日よりこの国は、我々の支配下に置かせて貰う。
諸君らに、我々からの指示を伝える。
もし我々の指示に従わない場合は容赦の無い処分を下すが、従っている者には危害を加えるつもりも、その生活を阻害するつもりも無い事を予め知らせておこう。
我々の最初の指示は、以下の四つである。
一つ。式城 紗斗里を探し出し、我々の元に連れて来る事。又、彼女に関する情報を持つ者は、逐一それを報告すること。
一つ。稀少種のサイコソフトを、全て我々に提供すること。
一つ。クルセイダーというキラーチームに関する情報を持つ者は、それを報告すること。彼らは、サイコプラグシステムを悪用する凶悪な輩である為、我々が処分を下す。
一つ。これらの調査を行っている我らの同志に対しては、全面的な協力を行う事。言語に関しては我々が既に学んである。貴様らのクレイジーな文法を持つ言葉をわざわざ学んでやったのだ、感謝したまえ。
我々からの最初の報せは、以上である。
繰り返す――」
動画を延々と繰り返しているらしく、それ以後は一分一厘の狂いも無く同じ内容が続けられた。
「なんて無茶な事を――」
「思ったより、動きが早い」
疾刀は目を見開いて唖然とした顔をし、楓はいつになく真剣な面持ちをしている。
「いずれこうなる事は分かっていた。
紗斗里がそれを予測し、僕を逃がした」
「――君と式城 紗斗里は、全く別の人物なのかい?」
その質問の答えが返されるまで、随分と時間が掛かった。そして悩みに悩んだ結果、返された答えがこれだった。
「そうとも言えるし、違うとも言える。
紗斗里は全てを知っているけど、僕はその一部しか知らない。
僕には僕と紗斗里の区別がつかなかったけど、紗斗里は違った。
もしかしたら、僕は紗斗里を知らないのかも知れない」
何やら難しい問いかけのようだった。それを聞いた事で、疾刀は却って混乱した。
「僕にも分からない事だから、考えても分からないと思う」
分からないのだとしても、確認しておくべきことが、一つあった。
「楓ちゃんが彼らに見付かったら、捕まる心配は無いのかい?」
「――ソケットを見せない限り、大丈夫。
お兄ちゃんには、見せておいてあげる」
赤いフードが、自主的には風呂に入る時以外では初めて、その頭から脱がされた。
疾刀へと後頭部を見せ、肩より少し下まで伸びた髪の毛を掻き分ける。
首の付け根には、頂点の六つある星――六芒星が描かれていた。ソフトが差し込まれた、密集した十二個のサイコプラグによって。
その中央に、ソケットと同じ位の大きさの、六角形のソケット状のようなものが見える。が、ソケットにしては形がおかしい。
「紗斗里が十三のソケットを持っている事は、一部の人には知られているから。
僕が紗斗里ではなくても、彼らに知られると危険だから隠していたの」
「却って、目立つんじゃないかな?」
「それでも、プラグをすぐに見られるよりはマシだから」
「……そうだ、少しだけど、財布とお金を渡しておくね」
ズボンのポケットから取り出した財布――小銭入れと云った方が正確だろう――を差し出すと、楓はそれを押し返した。
「お金なら、持ってる」
「そう。
じゃあそろそろ、食べようか」
テレビの電源は切って、二人はようやく朝食を食べ始めた。
冷めかけていたが、何故かどれもがとても美味しく感じられた。
昨日の夜に、結局何も食べてはいないせいもあっただろうが、ただそれだけではないように、疾刀には感じられていた。
それが、楓のお陰なのは確かだ。
本当の楓の姿に近付けたお陰なのは、確かだった。