第30話 名も無き娘
「あなたはアテネ。
姿を現すことなく護る者。
あなたが出て来る事なんて、出来ない筈なのに」
「あなたの事は覚えていますよ、名も無き娘。
あなたは紗斗里と共にあったのではないのですか?」
目の前の奈津菜は、奈津菜のようでいて奈津菜では無い。
疾刀に分かるのは、ただそれだけだった。
楓に対して、対等の立場で話す凛々しい女性。
先程までは彼女に計り知れない魅力を感じていたが、今は畏怖の念を覚える。
「僕は楓。もう、名も無き娘では無い。
紗斗里とは、別れたばかり。彼女が身の危険を感じたから、僕を逃してくれた」
「その原因を記憶しているのは、あなたでは無いのですね?」
楓は返答に迷う。
そんな質問にも答えられないとは思わず、奈津菜=アテネは戸惑いながらも質問の仕方を変える事にした。
「あなたか紗斗里か、どちらなのかを答えてくれるだけで良いのですよ?」
「あなたには、教えられない」
「何故?」
「あなたが味方とは、限らないもの」
「フフッ。そんなことを気にしていたのですか?」
思わずこぼしたその笑みに、疾刀はほんの一瞬、奈津菜の顔を見たような気がした。
奈津菜が時折見せる、一番魅力的な笑顔だ。
「ご安心なさい。私は役目が終われば、再び意識の彼方で眠りに就くのですから。
そんなことより、あなたも一緒に来ていただけませんか?
あなたが手を貸して下さるのでしたら、私の役目もすぐに終える事が出来ますし、その方があなたにとっても都合が良いのではありませんか?」
「……分かった。
けど、僕の力は期待しないで。紗斗里も居ない今、以前ほどの力を使う事は出来ないから。
それで、どこまで行くの?」
奈津菜=アテネは、人差し指を立てた手を、すっと伸ばした。
突き立てられたその指は、てっきり前後左右の何処かに向けられるものと思いきや、そのままついっと上に持ち上げられた。
「上、ですわ」
その時、その方向から、何か大きな音と振動とが伝わって来た。