作家としての覚悟

第68話 作家としての覚悟

 許可が下った。

 次なる作品を考案する許可がだ。

 この作品で先を描いても、それは結局は蛇足であるだろうし、こんな形よりは、娯楽的な作品で100話を目指したくなった。

 楽とは言えない。しかも、今は作品のタネも無い。

 でも、コレを乗り越えないと、セミプロとは言え、『作家』とは言えなくなってしまう気がする。

 否、エッセイと云う見方から見れば、文章でお金を貰っている、『作家』と言えるのだろう。

 不穏な事を色々書いた。検閲が入れば、没になるだろう。

 だが、必要な事を書いたと云うような気がする。

 危惧すべきこと。対処すべきこと。不穏なヨゲンに対するジャミング。

 そもそもが、この世に全く無駄な事はほぼ無いのだ。

 その時は無駄でも、将来的に役立つ可能性が大いにあり得る。ほぼ必ずと言っていい程。

 だから、蛇足も必要なのだ。

 俺は、まだまだ生きたい!

 だから、暗殺も公開処刑もしばらく後にして頂きたい。

 いい加減、地を這うような生き方はしたくないのだ。

 上を目指して、何処までも何処までも昇ってゆく天龍に、俺は憧れる。

 例え、高いところに昇りたくなるのは、馬鹿と煙なのだとしても、なのだとしたら、馬鹿になりたい。

 執筆馬鹿。上等では無いか!

 幸か不幸か、俺の弟妹には午年生まれと10月生まれ(花札の鹿)の両方が居る。

 ならば、既に馬鹿兄貴だろう。

 馬鹿は99%の閃きと、1%の努力だ。

 正解か不正解かは兎も角、何らかの閃きを得るのが馬鹿だ。

 俺はどうだろう?

 蛇足編になってから、何らかの文章を閃いて、ココまで書き続けて来た。

 それと云うのも、1%の本気と、99%の、『審判の日』を下らない形で済ませる為の行為だ。

 『審判の日』は不可避だと言われた。

 だから、こんな形で訪れさせた。

 1%の本気は、本気の命令を下した事にある。

 ああ、何らかの形で、次の作品を描くタネを、少しばかり見つけた。

 ただ、昔のネタ帳を見付ける必要がありそうだ。

 でも、俺は馬鹿とはちょっと違う気がする。

 20%の閃き、20%の努力、20%の趣味、20%の遊び、20%の才能。コレで、秀才と定義すればどうだろう?

 天才は、99%の努力と1%の閃きと、かのトーマス・エジソンが定義した。

 でも、おかしいな。秀才の方が努力で成り上がるもので、天才は生まれ持った才能だ。

 と云う事は、天才は漏れなく努力をしていると云う事だろうか?

 俺が努力と思ってやって来たことは、駄文を連ねる事でしか無いのだろうか?

 ならば、『才能』を含む分、秀才と天才の逆転現象が起きる。

 関係無いと思うかも知れないが、趣味や遊びは重要なんだよ!

 知識の源泉や、気分転換として。

 そうして遊びの中から生まれた概念もある。

 蓄音機なんて、趣味や遊び・娯楽の為に存在するものに近しい。

 似たような例は、多数存在する。

 趣味や遊び・娯楽の為に誕生したものが、この世にどれだけ溢れているかを思い知れば、そう云ったことが転じて発明に至った、とも言える。

 俺には、出来ないのだろうか?全く新しい、ヒットする作品を描くことは。

 ――判らない。だけど、これだけは言える。

 長く一つの作品を描かないと、成功する事は無いのだ、と。

 今は、趣味の執筆の方が本気過ぎる。

 コチラは……何て無駄を積み重ねているのだろうか?

 コチラも本気にならなければいけない。仮にも、この文章に対価を貰っているのだから。

 だからこその新作だ。

 今作よ、犠牲になっておくれ。

 冗長的でも、書き続ける経験値は積んだ。

 次は、100話を超えて書く!

 ああ、約束するともさ!自分を信じて!

 見ていてくれ、次作『Gungnir』。

 恐らく、今作はこれで最後だろう。