ゴスペルの威力

第3話 ゴスペルの威力

 それは、映画のクライマックスでの出来事だった。

「……すまない。

 DVDを止めてくれないか?」
 
 突然、狼牙がそう言い出した。
 
「えー?一番いいところじゃない。最後まで見ようよー」

 詩織はそう言うが、狼牙はDVDのタイトルを見た時から、嫌な予感はしていたのだ。
 
 スルメにケチャップを付けるのは大ヒット。狼牙は今後、自分の食事のレパートリーに加えてもいいかも知れないとまで思ったのだ。だが、問題はそこではない。
 
 映画のストーリー展開も良かった。途中までは、狼牙も楽しめていたのだ。でも、クライマックスがいけなかった。
 
「頼む、止めてくれ!」

 心の底から、狼牙は懇願した。顔はもう、真っ青である。
 
「えー」

 詩織から上がる、抗議の声。だが、狼牙は我慢の限界に達し、遂に叫んだ。
 
「止めろ!」

 これには詩織もビックリし、言われるままにDVDを止めた。
 
「どうしたの、狼牙?いつもと様子が違うよ?」

「……怒鳴ったりして、すまない。だが、駄目なんだ。その……」

 その映画は、犯罪の証人を修道院に匿い、彼女の影響で聖歌隊が復興してゆく映画。つまり、クライマックスで流れていたのは……。
 
「ゴスペルが」

「あ、狼牙、吸血鬼だもんねー」

 この詩織のセリフは、単なる冗談。ついでに冗談をもう一つ。

「じゃあ、私の血でも吸って回復する?」

「……良いのか?」

 これは本気。本気で苦しかった狼牙には、それが冗談であると、一瞬、聞き分けられなかった。
 
「ちょっと。本気にしないでよ。

 第一、あなたには皮膚を食い破ることの出来る牙なんて、生えていないでしょう?」
 
「……あ。

 ……冗談、か」
 
「そうよ。フフフッ」

 詩織に笑われると、狼牙はスルメにつけて食べるためのケチャップを指で掬い取って、舐めた。それを見て、詩織が不審に思ったのだろう、彼女はこう、狼牙に訊ねた。
 
「まさか、本気で私の血を吸いたかったの?」

「……いや。血を吸うと、感染うつるからね」

「……何が?」

「……ヴァンパイア・ウィルスが」

「あはははははは!」

 詩織は口元を押さえて笑った。軽く、転げるように。
 
「それって、『吸血鬼の手記』の2巻の、『血の晩餐ばんさん』のセリフじゃない!」

「……よく、覚えていたな」

 狼牙もフッと、軽く笑った。
 
「『じゃあ、そうならないように、十字架のペンダントでも身に着けておくことにしようかしら?』」

「『残念ながら、十字架など、我々にはまるで効果が無いのだよ。……多少、苦手ではあるがね』」

 二人は続きのセリフを言い合い、お互いに笑った。
 
「あはははははは。

 狼牙。あなたにピッタリよ。あなたが主演して、映画を作ったらどう?きっとヒットするわよ」
 
「そういう話も出たのだが、僕は演技が苦手でね。今のが精一杯だよ。

 それに、セリフを覚えるのも苦手だ。僕自身の作品のセリフでも、覚えているのはほんの一握りだ」

「そう言わないで、若い内にいっぱい稼いでおかないと。稼いでいられる時期なんて、そんなに長く続くと思っていたら、後で後悔するわよ。小説家を続けていられる時期が長い人なんて、極一握りなんでしょ?」

「らしいね」

「あ、でも狼牙は、もう長い方なのか。十年は続いているもんね。一握りの方に、十分含まれるんだ。おめでとー」

「ありがとう。

 しかし、受けるべきだったのかな、あの仕事?」
 
「もちろん!

 見たいなー、狼牙の主演している、『吸血鬼の手記』」
 
 苦笑して、狼牙が言う。
 
「今度、話を切り出してみるよ。

 ……さて。今日はそろそろ帰ろうかな。帰りの電車が無くなると困るからね。……いや、それは理由にならないか。まだその時間まで余裕があるし……。
 
 ……いや……まぁ、その……ゴスペルは、本当に苦手でね。多少、具合が良くないんだ」
 
「そう?なら、もう少しゆっくりして、具合が良くなってから帰れば?何なら、泊まって行っても良いよ♪」

「いや、いい。

 今日も楽しかったよ。最後のゴスペルが無かったら最高だった。
 
 ああ、そうそう。スルメにケチャップを付けて食べるというのも、歯ごたえがあって美味しかった。今度、家でもそうして食べるよ。
 
 じゃあ、また今度、誘って欲しい」
 
「あ、待って。

 あのねぇ、探して欲しい映画のDVDがあるんだ。
 
 海の上で生涯を過ごし、船と共に死んでいったピアニストの映画。一度、観たことがあるんだけど、探して、見つけたら連絡してよ。私の方でも、探してみるから。
 
 駅まで送るよ?」
 
「いや……。送った帰りの、女性の夜道の一人歩きは危険だから、玄関までで良いよ」

「うん」

 二人は、共に玄関まで行くと、「また会おう」との言葉と共に、口づけを交わした。
 
 これが、結城 狼牙にはよくある、日常生活と言える範疇はんちゅうに収まる程度の、ある日の出来事だった。